仏典の中に「無財の七施」という言葉がありますが、今出版されているたくさんの本の中に登場してきます。ただ、同じ「無財の七施」でも作者によって若干の解釈の違いがあるようです。それ程仏教というのは奥が深くて難しいものだということでしょう。
松野宗純という人の書いた本に、わかりやすく「無財の七施」を解説した部分がありました。
・「眼施」・・・・・・他人に対して慈悲の眼差しを持ってみると言うことで、そのようなことがあっても、決して憎む眼で他人を見ない。
・「和顔悦色施」・・・・・・どんなときでも、嫌な顔つきやしかめ面をしない。いつもにこやかな顔つきをして、他人の気持ちを和ませる。
・「言辞施」・・・・・・常にやさしい言葉を使い、決して荒々しい言葉を使わず、人の心を荒らすことがない。
・「身施」・・・・・・どのような時も、他人に対して身を持ってつくす。
・「心施」・・・・・・常に善い心を持って他人と和らぎ、善いことをしようと努める。
・「床座施」・・・・・・他人のために居場所を設け、居場所を作ることができない時には自分の居場所を譲ってあげる。
・「房舎施」・・・・・・自分の所に来た他人を、家の中に自由に出入りさせ、泊まらせる。
曹洞宗の僧侶である松野宗純師の言葉を借りると、・・・・・・貧者であり、弱者であり、愚者であるという自分を本当に知った人こそ、豊かな人間になれます。それは「無財の七施」について考えることで、余計な財力や知識や競争心といった我執に邪魔されることなく、もともと人の心の中に備わっていた、尽きることのない「徳」の源泉を探り当てることが出来るからです。・・・・・・とあります。
仏教のことについては、私自身かじり始めたところですので、この「無財の七施」についてもよく理解しているわけではありませんが、松野宗純師が言う「余計な財力や知識や競争心といった我執に・・・・・・」というところは、その言葉のとおりに受け取って、知識に対する探究心や、ビジネスにおける競争心をも悪だと結論づけられているわけではないようです。
これからの世の中は、ますます競争が激しくなってきます。知識を深め競争心を燃やしていかなければ会社の存続は危うくなることは目に見えています。ですから私達はこれまでにも増して、知識に対する探究心、競争に打ち勝つ情熱を持つことが要求されます。
では「無財の七施」はこれからの世の中では通用しないものかというと、そうではありません。競争心や探究心を必要とすればするほど、一方では人に対する思いやり「布施心」が大切になるという解釈が正しいのではないかと考えます。
「布施心」を一言で言い表すと、「他人に何かを捧げることで自分に幸せが戻ってくる」という考え方です。この布施心の中に「無財の七施」があるわけです。
別の本によると、お金を持っている人は「財施」と言ってお金を差し出すことで布施行を努めることができる。あるいは「無畏施」と言って、人々の恐れていること、その恐れを少しでも軽くしてあげる、という布施の仕方もあり、「顔施」と言う顔でする布施もあり、まわりの人に対して、にっこりと花のように笑うことによって、周りの人やその場の雰囲気をぱっと明るくする。これもひとつの大きな布施だと書かれた本もあります。
いろいろあると思いますが「布施心」という言葉で言われていることは、そういうことをおこなうとおこなった側が大きな幸せを受けるのだ、ということなのです。
幸せを受けるということ、何か偽善的に聞こえるかも知れませんが、そうではありません。人は、他人の痛みを自分の痛みのように感じて思わず小さな呻き声を上げることがあります。そのことで癒されるのは相手だけではなく、むしろ自分なのだという考え方です。
無能昌元は言います。「精神の世界も物質の世界も同じことだ。物質の世界では押し出した振り子は必ず帰ってくる。大きく押し出せば押し出すほど帰りも大きくなるという現象は誰もが理解しているが、こと精神の世界では、他人によくすると自分は損をする。と思っている人が多い。他人のために役に立つことは、ひいては何倍にもなって自分に帰ってくるということを知らないのだ。もったいない。」
「人の喜びを自分の喜びとする」・・・・・・言うは易く行なうは難し・・・・・・である。